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わかります

 投稿者:岡本御新香  投稿日:2015年10月29日(木)19時40分19秒
返信・引用
  私も集団就職でしたおにぎりチョキ  
 

豪徳寺

 投稿者:佐久間精一  投稿日:2015年 5月 6日(水)21時54分13秒
返信・引用
  3月13日横浜高工OB同期のハイキンググループで世田谷区横断のウォーキングをしました。
成城学園駅(バス)東京農大→馬事公苑→世田谷代官屋敷→豪徳寺→松陰神社(旧玉電)
三軒茶屋。 大河ドラマの影響で結構人出は多かったのですが、六中OBの小川、松本、佐久間
は豪徳寺で、大庭、高桑両君の墓参もしてきました。
大庭・高桑両君と佐久間は世田谷区立松原小学校1年2組での同級生、小川・高桑・佐久間は
海軍経理学校39期の同期生でした。両君の墓は50メートルくらいしか離れていなくて、
また井伊大老の墓所にもほど近いところです。
高桑君は事情あって亡くなる頃は連絡がつかなくなっていましたが、ご長男がホームページを
見て連絡してくれたのが2年くらいまえでした。ご長男の高桑大介氏は日赤伊豆病院の事務長
でご活躍中です。

 

足跡を辿ると…

 投稿者:野寺  投稿日:2015年 5月 3日(日)11時30分36秒
返信・引用
  「r21ob」 のきっかけは、2007/06の同期会で〝動員先を辿る〟ウオーキングの報告でした。
波乱の時代に育った我々の、普段忘れていた大きな、貴重な体験。これは遺さなきゃ…
 私がたまゝゝ子会社のコンピューター会社を預かっていたので、はやりの〝ホームページ〟を作ろう…となり、皆の協力でメールのやりとりが出来る態勢が整い、資料収集が始まりました。

 資料は戦災を免れた作間君の日記、大勢の仲間からの資料メール、この〝掲示板〟、纏めは宮川監督、HP化は小生… こんな態勢でもう8年。こゝまでのものが出来ました。
 これは、あの時代の六中の、貴重な記録としても評価され、遠からず消える21回生から朝陽同窓会に移管となるでしょう。

 そんな状況で、更めてHPのチェックを始めました。更めて見直すと感動が蘇ってきます。
こんな物を、皆さんで作ったのです。つい7年前からですよ。まだゝゝ余力はある筈です。〝後期高齢者〟なんて役所の扱いに負けず、頑張りましょう。そしてHPの完成に努めましょう。

 掲示板は掲示板屋の都合で止めちゃう場合があります。必要な部分は既に末にHPに取り込みましたが、一応全部のCOPYを遺しておこうかと準備中です。

 皆さんも、HPその他、たまには眼を通し、チェックをしてください。後世に遺したい形に、今なら修正可能です。
 

http://r21ob.life.coocan.jp/index.htm

 

東洋製缶・中村屋

 投稿者:佐久間精一  投稿日:2014年11月 4日(火)22時08分48秒
返信・引用
  かながわ環境カウンセラー協議会の会合で学徒動員の勤務先であった東洋製缶が3R(Reduce,
Reuse,Recycle)の優良工場であることを知りました。「容器文化ミュージアム」が大崎フォレストビルヂング1階(品川区東五反田2-18-1、Tel。03-4514-2026)にあるとのこと。また、中村屋は10月29日新築グランドオープンしました。2件のちらしをスキャンして掲示したかったのですがスキャナー故障で果たせませんでした。
 

「長生き時代」を生きる

 投稿者:佐久間精一  投稿日:2014年10月 5日(日)10時35分33秒
返信・引用
  加賀乙彦、小沢利男(元東京都老人医療センター院長)、落合恵子の三者対談の本が出版された。(集英社、2014年7月刊、1200円)「老化は必然で、アンチエイジングはそもそも
無理」とのこと。
 

小沢君の近著

 投稿者:佐久間精一  投稿日:2014年 9月14日(日)17時17分2秒
返信・引用
  松本代表幹事からの情報として掲示します。
小沢信夫君の近作
晶文社「捨身な人」最近作で松本君は現在読書中。
やや旧作(2010年発行)
筑摩書房「東京骨灰紀行 これは同窓会事務所にある。

小沢君の米寿を目前にした旺盛な創作意欲に感服。」
 

涙ながらの二階校長

 投稿者:黒岩博之  投稿日:2014年 7月27日(日)21時05分34秒
返信・引用
  朝礼の一コマ、いつもは元気に生徒を励ます二階校長が、訴えるように話しかけた。「過日、ある他校校長から話があった。その校の生徒と本校の生徒が喧嘩をしたというのだ。喧嘩をしてはならない。君たちは○○が違うのだ。」この○○は今日では使ってはならない言葉。さすがに差し控えるが、この○○には、全校生徒が凍り付いた。そのような言葉を使っても、二階校長は、自校生徒を擁護し、相手になってはならないと戒めたのだった。私はこのときの二階校長の訴えを忘れることが出来ない。普段使わない言葉でこれほどまでに自尊心を持てと励ましたのだから。

http://www.kuroiwa-hiroyuki.com

 

京王電車

 投稿者:黒岩博之  投稿日:2014年 7月13日(日)15時00分35秒
返信・引用
  「一人ボッチ六中豚児からの謝辞」
野寺さんに感謝の言葉を述べたくて打ち込みました。六中ホームぺージが復活した際、私の投稿記事が消えていましたが、数日前開くと再び目にすることが出来ました。有り難うございました。私のような一人ボッチにも暖かく迎えてくださったことに感謝いたします。ここまでは前置き、以下が「京王電車」投稿の本文です。

私の六中時代、母の死後まもなく何事にも身が入らず、冴えない生徒であったが、授業は欠席することなく、多くの学科を真面目に受講していた。しかし、英語は暗記が苦手で、教科書を丸暗記したり、諳んじることができなかった。それでも1年の時は、授業を教科に従って受講し、落ちこぼれることはなく、学習することができた。
そんな最中、帰宅途上、学友菅原君と新宿から京王線に乗り、ドアの近くに立って話しをしていたとき、前にいた中尉が突然に話しかけてきた。私にとって怖い配属将校とは全く違った優しい語り口だった。「次の日曜、調布飛行場に来ないか。門衛に話しをしておくから」日曜日菅原君と2人で飛行場に行くと、門衛が「暫くお待ち下さい」そしてでてきた中尉は「俺の弟だ」と言って酒保(将校の食堂)に連れて行く。従卒が運んできてくれたのは、丼に入ったぜんざいだった。
戦時中、こんなものを目にしたこともない。そして駐機場へと連れて行ってくれる。液冷の飛燕の前に来ると「乗ってみるか」、軍の最高機密、さすがにその言葉には乗れなかったが、さっと中尉は飛び乗り、我々を見て敬礼、恐らく直ぐに戦地に飛び立ったのだろう。その前、若い中学生を見て、とっさに何かを行動に残したかったのではないだろうか。言葉では言えない何かを伝えたくて。

http://www.kuroiwa-hiroyuki.com

 

我々の甲子園

 投稿者:穴水恒雄(代宮川)  投稿日:2013年 6月26日(水)13時09分14秒
返信・引用 編集済
  最初の文は、二回生穴水恒雄氏が兄孝雄氏に当てたものですが、そこから始めます。

 別紙を投稿用に作りました。
 小崎勇二(大阪高槻市在住)に連絡の必要があればご一報ください。
  なお21回生ホームページ集については、「昭和22年春の先生達の記念写真」の人定、あるいは軍学徒の復学・入学事情(この件については個人的にですが、以前詳細を調べたことがあります)さらには、昭和18年10月21日神宮外苑競技場での雨の「学徒出陣」見送りに六中生
は参加したのかどうか(近隣の中等学校男女の参加事実あり)、同じ競技場で同年11月7日に行われた「第14回明治神宮国民錬成大会」へ参加した六中生は誰だったのか、(記録によると「都立六中の銃剣道戦闘訓練」が行われた)など、いろいろ、そのうちに。
 お元気で、また。



昭和21年7月15日(月)全国中等学校野球大会
  東京予選  対都立二中戦のこと

 上記についての「府立六中21回生ホームページ投稿集第三輯」所載の「我々の甲子園」を小崎勇二(出場メンバーの一人。当時3年生)に読んで貰いました。返信内容を以下に摘記します。

 対都立二中戦の場所は、下高井戸の日本大学予科のだだっ広い野原のようなグランドにネットを張り、ダイヤモンドの線を引いたいわゆる草野球のグラウンドでした。
 先輩は江田さん、椎名さん、貫直さんは覚えています。
 また記載された最終回幕切れの様子は記憶していません。
 それより小生としては、敗戦の責任は自分の記録に残らない失策によるものと、先輩には申し訳なかったと、その場面だけははっきり記憶していますので書いてみます。

 ゲームの後半12対12の同点の8回だと思います。小生ピッチャーをやっていました(先発か中継ぎかわかりません)
 ワンナウト2、3塁のピンチを背負っていました。
 打者に対し渾身のカーブを投げピッチャーゴロに打ち取りました。
 ホッと安心したのか、3塁走者(相手投手俊足犬飼)を見ずに且つ山なりの緩い球を一塁に送球しました。この隙を突かれ本塁突入をゆるしてしまいました。
 この一点が決勝点になってしまいました。
 今思うと不思議に勝った試合より、負けた試合の方をよく覚えているような気がします。

                      (以下略)
追記(穴水恒雄)
 ① このときの出場メンバー3年生4名のうち、島崎典彦(内野手)と高橋寿郎(左腕投手、一塁手、外野手も)の二人はすでに故人。瀧島幸雄(一塁手、後年のエース)は病身。元気なのは小崎勇二だけになってしまいました。
 ② この試合は12対13の乱戦で、高橋→小崎、或いは高橋→瀧島→小崎と交代?
 ③ この大会は戦後第一回の甲子園ですが、翌22年も全国中等学校野球大会でした。
     23年4月から新制高等学校が発足したのに伴って、名称を全国高等学校野球大会と改め、それが今日まで続いています。             以上
 

石川先生と東京保育専門学校

 投稿者:佐久間精一  投稿日:2013年 6月13日(木)18時14分55秒
返信・引用
  先にこのホームページにアクセスしてくれた山田美智子さんと共に学校法人聖心学園東京保育専門学校理事長柿崎ゆり先生を6月11日にお訪ねして要重先生のわれわれがまったく知らなかった思い出を伺いました。この学校の前身東京保母専修学校が大正13年に作られたときから石川先生は関係しておられました。先生が東京女子師範で教えておられたとき、同期生の芳尾逸雄氏と共に校長と対立し連訣辞職し(石川先生らしい!)その芳尾氏が作った学校を手伝っておられた。
先生が六中に奉職されたのが大正13年3月なので両方で教えておられたことになります。昭和18年に旧満州の師道大学に移られるときには、保育専門学校に教え子の佐藤武雄氏(六中2回生)を後認にされました。戦後帰国されたときは召集された佐藤氏はまだ復員していなかったので、専門学校の講師としてまた美術を教えることになり、晩年まで続けられました。同校の50年史(昭和54年発行)には昭和52年3月21日に行われた座談会の記事があり、石川先生も思い出を語っておられます。先生は昭和55年10月14日逝去されました。
先生がカトリックの学園で今最も脚光を浴びている「保育士」養成にタッチしておられたのに驚くと共にいかにも先生らしいと感じています。
学校で発行している「児童研究」の表題部分を添付します。校章のカットは石川先生の作だそうです。
 

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